たまには自分を褒めよう!

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

 

今日は、部屋の掃除をしていたのですが、過去に書いた日記が出てきました。

 

当時の思いや、考えがいろいろと書かれていました。

 

それを読みながら、

 

「えっ、このときこんなことを考えていたのか!」

 

と思いました。

 

つまり、いまから過去のことを思い出してイメージする自分と、当時の本当の自分に齟齬があったのです。

 

 

実は、人は、自分がとても一生懸命生きてきたことをすっかり忘れていることが多いのではないでしょうか。

 

前向きに取り組んでいる人ほど、過去の自分を振り返ることは少ないと思いますが、自分が思っている以上にがんばってきた自分がいるのかもしれません。

 

もしあなたがいま、何か自分を責めていたり、悩んでいたりするのなら、可能であれば過去の日記を見直してみてください。

 

 

そのときはそのときの自分なりに、そんときのスペックで、そのときのパフォーマンスで全力を尽くしていたのかもしれませんよ。

 

 

なぜこんなことを書いたかというと、いまこれまでがんばってきた人ほど苦しんでいる気がするからです。

 

これまで全力でがんばりのし上がってきた人が、壁にぶちあたって、どうしようもなく自分を認められなくなったり、自分を責めたりしていることが多いのではないかと思うのです。こんな状況ですから、そういう人が増えてもしょうがないでしょう。

 

そんな中で、さらにこれまで以上にがんばるというのは、非常に難しいことでしょう。

 

 

ですから、こういうときにもっとがんばなきゃと思ってしまう人は、いったん過去の自分、がんばってきた自分をもう一度振り返るといいでしょう。

 

意外とこんなにがんばったいたのか〜!と認められるかもしれません。たまにはたっぷりと自分を褒めてあげてくださいね!

 

 

 

 

知にとらわれすぎた末路

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

 

現代人の多くの人たちは「知」にとらわれています。これはビジネス書がいまだにたくさん売れることでわかるでしょう。ビジネスマンは特に常に新しい知識を吸収しようと勉強します。

 

 

しかし、ここで注意点があります。

 

 

あまりにもたくさんの知識を入れすぎると、「すべて知に囚われてしまう」ということです。

 

 

昔、会社で働いていた頃に典型的な人がいました。

 

会議になると、どこかの本で読んできたもの最近流行の理論を、ここぞとばかりに披瀝するのです。

また、やたらと難しい言葉を使い、ロジカルに物事を解決していこうとする人もいました。その決着を必ずロジカル帰着にするということです。

 

 

私は、これらのことがどうも、しっくりこないというか、違和感を常に感じていました。

 

 

私自身も様々な本を読んで学んできましたが、やっぱり最後は自分の頭で考えるしかないと思うのです。しかもそれは、知に頼りすぎない、感覚的なものを大事にするということです。

 

そして、知に甘んじて作為的なことをしないこと。あまりにも作為的に何かをしようとすると失敗することが多いと思うのです。

 

 

 

現代、テクノロジーの進化により、この「知」があまりに重要視されすぎてきました。全てがロジカルに解決されるべきだという風潮がますます強くなってきています。

 

科学的な理論・知識がすべて・・・。

 

 

果たして、本当にそうでしょうか?

 

 

私は最近になってそうではないことを、肌身で感じています。もちろん今回の世界的な騒ぎもそうですが、科学的には解決できない事象が多くなってきている気がするのです。

 

 

これは今まで、科学的に、ロジカルにうまくいってきたことが、うまくいかなくなる、ということを意味します。

 

以前、私が会社で働いていた頃、これまでの理論通りやっていたことが通じなくなったことを目の当たりにしました。それに直面することで、これまでの「知」に限界がきていることを、ひしひしと感じたのです。

 

 

私はそこで何か大きな変化があるなと直感で感じとりました。

 

 

これからの時代がどのように展開していくかは、全く予想できませんが、混沌としていることは確かでしょう。

 

ここで、参考になるのが『荘子』です。『荘子』ではこう書かれています。

 

 

「知を超えよ。永遠なるものと一体となり、虚無の世界に遊べ。自己に与えられた天性を全うするだけでよいのだ、それ以上つけ加えようとするな。一言で言えば、心を虚しくすることだ。」(『中国の思想 荘子』(徳間書店 松枝茂夫+竹内好(監修) 岸陽子訳))

 

 

 

私たちは、自分たちの「知」を過信しすぎてきたのではないでしょうか。ちょっと見直すべき時が来ているのではないかと思います。今、自然が起こしていることに耳を澄まし、私たちがするべきことを考えることが重要ではないでしょうか。

 

 

私は、自然は決して悪者ではないと思っています。むしろ、私たちと同じ、対等な存在です。彼らと共存しない限り、これからの人類の未来も危ういでしょう。自然は今そのメッセージをくれているのだと思います。

 

 

私たちが本当に賢明であれば、それを感じ取ることができるでしょう。そこに「知」いらないのです。

私は、必ず未来を切り開いていく人類を信じています。必ず・・・。

 

 

 

 

人間万事塞翁が馬

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

今日は、「人間万事塞翁が馬」について述べていきますね。

 

 

私はこの言葉こそが、まさに人生を見事に言い表した言葉だと思っています。

 

自分自身もそうですし、身の回りの人を見ていても、まさにこの通りだなと感じることが多かったのです。ちなみにこの言葉をよく知らないという人もいるかもしれませんので改めて意味を言うと

 

「人間が生きている間は、いいことが起こったとしても、次に悪いことが起こったりする。また一見悪いことが起こったと思っても、次にいいことが起こったりする。このような変化を繰り返すものだから、安易に喜んだり、落ち込んだりする必要はない」

 

という意味です。元々は中国の故事からきています。

 

 

私は、この言葉の意味することが本当に重要だなと思っています。

 

 

私たちはいいことがあった場合に有頂天になっていると、すでにその間に次の不幸に向かい始めている、つまり何か不幸になる原因を作ってしまっているということです。

 

 

有名になったから、周りの人に横柄にしだすとか、お金持ちになったからといってお金を粗末に扱うだとか、色々あるでしょう。

その原因は、まさにこの「一見周りから見ると幸せに見える状態」の時に起こりやすい、ということです。

 

そしてこのいいこと、というのはある意味でこの世的というか、人に何か賞賛されるようなことや自慢できるようなことが多いですよね。これが足元をすくわれる原因になっています。

 

私たちは得てして、家の花が咲いたとか、落し物を拾ってあげて喜ばれたとか、今日も元気でいられたとか、そのようなことをいいこととは思っていないわけです。多くの人にとっていいこととは、人からうらやましがられるようなことを得られたときです。

 

 

しかし、これが足元をすくわれる元凶になっています。ついつい浮き足立ってしまい、坂から転げ落ちる原因を作ってしまっているということですね。それも、有頂天の時に自分でその原因を作っているということが多いのではないでしょうか。

 

 

 

私たちはこの世の中で、ある意味、こうならないと幸せじゃないとか、こうだから不幸せだなど、典型的なパターンを刷り込まれています。

 

でも別に、周りから質素に見えても、本人は十分に幸せに生きていることもあるし、お金がなくても楽しく暮らしてい家族はたくさんいます。

 

 

私たちは本当は個々に、独自の価値観で人生をつくっていけるはずなんです。今は社会という組織の中で、国がマスメデイアを使い、ある一定の方向に人々の価値観を誘導していますが、本来は各々の人生が歩めるはずなんです。

 

 

私たちは、起こる現実をありのままに受け入れ、自分にとって幸せかどうかの基準をつくることが大切です

 

そうすれば、塞翁が馬の言葉の意味を忘れることができるでしょう。多少の運命的な災いもあれども、少なくとも人為的な災いはそれで避けられるでしょうし、どんなことが起こっても自分は大丈夫であるという精神を持てるに違いありません。

 

 

 

 

 

役立たずの役目

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

唐突に質問しますが、あなたは社会で役に立っていますか?

 

また役に立とうとしていますか?

 

 

おそらく多くの人がイエスと答えるでしょう。

 

しかし、私はここに多く人がハマる思いがけない罠が潜んでいることを経験から学びました。

今回はそれをみなさんにお伝えしたいと思います。

 

 

私はこの質問に対してみなさんが、イエスというのは当然だと思っていますが、あまりにも意識的に役立とうとしすぎることは身を滅ぼすと思っています。

 

 

 

みなさんもよくやりませんでしたか?目標やミッション設定。

 

これはとても重要なことだし、大切なことだと思います。私も本当に真剣に取り組んできました。

 

 

しかし、これに真剣に取り組めば取り組むほど、何か自分の中で満たされないもの(不幸感)が積もっていったのです。

 

 

なぜだと思いますか?

 

 

それは、いつも書いていますが、「自分を放りっぱなしにして、外付けのものを追っていたから」です。

 

 

つまり、今の自分を大切にできていなかったからです。

(振り返ると、今満たされないから、満たされようとして目標やミッションを作り出していったのでしょう)

 

 

もちろん何かに向かっていくことは美しいですし、素晴らしいことです。

 

 

しかし、それが今の自分を犠牲にしてしまっているのであれば、それは本当に価値あることなのかもう一度自分に問うべきだと思います

 

 

私はこの罠に陥っている人を本当にたくさん見てきました。そしていつのまにか自分もその罠にはまってしまっていました。

これが恐ろしいのは、なかなか自分で意識できないということです。

 

だから無意識でどんどん間違った方向に進んでいくのです。

 

 

自分では、全力で生き、しかも常に一生懸命なんです。でも満たされない・・・、だからまた漕ぐ、漕ぎ続けるみたいな、そんなスパイラルをずっと繰り返すわけです。

 

 

そしてこの果てというのは、目標を達成し手に入れるが無力感に襲われる、もしくはその前に病気になったり不幸にあったりする、などが多いかもしれません。

 

これは極端な例ですが、自分の内側の声をずっと無視し続けると、それが表側の現象として現れます。レッドカードを出されるわけです。

 

 

私自身、こういう人をたくさん見てきました。ある人は、常に目の前のことに慌ただしく取り組み、いつも忙しそうにしている人でした。トップの言うことをずっと聴いていて、自分を犠牲にして働いていました。すごく献身的でした。

 

しかし、その結果どうなったかと言うと鬱になり会社を辞めることになったのです。

 

 

周りから見たら美しく見えます。おそらく本人から見ても自分を誇らしく思っていたかもしれません。

しかし、それが罠なのです。

 

 

 

私たちはこれまで間違った美徳感を刷り込まれてきました。それは自己犠牲をしながら、他人のために尽くすということです。

 

これで不幸な人を何人見てきたかわかりません。

 

自分を犠牲にして自分を不幸にしていたら、結局周りを不幸にしてしまいますよね。だから要注意だと思うのです。

 

 

 

それで、今日のテーマの「役立たずの役目」と書きましたが、中国の思想書『荘子』にこういうことが書かれています。

 

 

「世間の役に立たないからこそ伐り倒される心配もないし、危害を加えられることもないのだ。役に立たないからといって気に病む必要がどこにあろう」       ーーーーーー『中国の思想 荘子』(徳間書店 松枝茂夫+竹内好(監修) 岸陽子訳)

 

これは大工などからも無視される「役に立たない木」について荘子が述べている箇所です。

 

つまり、役に立たないものは、実は得をしていると。実はいるだけで人の役に立っている、つまり癒されたり、和んだり、幸せな思いになったりするものは、「あるだけでOK、いるだけでOK」ということです。

 

 

これがいわゆる「存在価値」です。

 

 

 

ヘルマン・ヘッセの小説で『東方巡礼』というものがあるんですが、この中の主人公レーオはまさにこれに例えられます。

 

巡礼にむかう一行の中でレーオはただいるだけの存在でした。(奉仕的なことはしていましたが)でも特別目立つわけでもありません。

 

 

しかし、ある時レーオがいなくなるんですね。そして一行は慌てだすんです。「チームがまとまらない・・・」、みたいなことが起こったわけです。

 

 

実はレーオは目立たない存在ではあったものの、一行の柱(リーダー)であったということが分かったんですね。

 

 

本当に存在価値の高い人というのは(もちろん誰もが高いのですが)、ある意味そこに溶け込んでいるということです。

いるかいないかわからないくらいに混ざり合い、融和しているということです。

 

 

私たちは、何か自分の価値を示すために、往往にして何か特別な行動をとり、特別な名誉を得ようとしますが、そんなことは必要ないということです。

 

 

わざわざそんなことをしなくても、本当はいるだけ大きな価値がある、ということです。

 

 

もし多くの人たちがこのことに本当に気づくなら、社会は大きく変わるでしょう。無為な競争もなくなるでしょう。もっと平和でやすらぎのある社会が生まれるかもしれません。

 

 

私はそんな社会を望んでいます。今もそう願ってやみません。

 

 

 

【企みを持って話していませんか?】雑談は二人で行う●●

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

今日は少し雑談系の話です。

 

よく会社とかでも誰かに話しかける時、何か意図を持って話しかけてくる人がいます。つまり何か企みを持って話をしてくる人です。

 

 

みなさんの周りにもいませんか?話しかけてくるのはいいけど、はじめ楽しく雑談していたと思いきや、実は頼みごとがあったり、何か指示があったり、本音を暴露されたり、など。

 

これはたまになら許せるものの、毎回そうだと人間性を疑いますよね。

 

 

私が以前働いていた会社にもいました。

 

雑談をしてくれているのかと思いきや、私に何かをさせようと企んでいる人。その意図が見え隠れしていました。そして毎回、そういうことが続くとこちらも疲弊し、人間不信になるものです。

 

 

 

よく雑談とかでも、意図的に計算して話すテクニックが紹介されていますが、私はあまり好きではありません。なぜならそこには常に意図があるからです。意図があるということはそこに「殺気」があるということです。

 

 

これを私は敏感に感じ取るので、意図的に話をする人ははじめからわかってしまうのです。

私は、「ありのまま」が好きなタイプ(『荘子』を好むタイプ)なので、何か意図されていると思うだけで、嫌な気分になります。

 

意図があるということは、本人はその会話を楽しんでいないですよね。相手を楽しませようとしているのか、何か誘導しようとしているのか、依頼していようとしているのか、わからないですが、いずれにしても意図の中に本当の雑談の楽しみは含まれていないと思います。

 

 

ただ、ひとくちに「雑談」と言ってもいろいろ定義されるかもしれません。今言ったような、何か仕事で役立つ、意図している方の会話を「雑談」と定義する人もいるでしょうし、単なる意味のない会話を雑談と定義する人もいるでしょう。

 

 

 

私はこの「意味のない会話」が好きです。なぜなら「どうでもいいことだから」です。でもなぜどうでもいいことなのに好きなのか?

 

それは、「息を抜けるから」です。

 

雑談はどうでもいいから価値があるのです。意味不明だから、そこでいわゆる「無」ができるわけです。一人だと瞑想とかで「無」になりますが、二人で行う瞑想が「雑談」であると言えます。

 

 

ですから、本当に楽しい雑談は、終わったあと、「ああ楽しかった!」と心から思えるものです。

 

逆に何かどよ〜んとした、重い感じになるのであれば、必ず相手の意図が働いている、エネルギーを奪われている、と考えられます。

 

 

まとめると、本当に価値ある雑談には、ありのままである、ということ。そこに互いの変な意図が働かないことが重要であるということです。

 

こういう雑談が増えたら、もっとこの国も豊かになると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出世をとるか、自由をとるか

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

今回は出世をとるか、自由をとるかについて書いていきたいと思います。

 

 

えっ、両方得られるんじゃないのと思った方もいるかもしれませんが、なかなか両方得られることは少ないのではないでしょうか。

 

会社の組織に入ってみればよくわかります。上に行けば行くほど、政治的な要素が強くなっていきます。気を配ること(忖度もそうです)が多くなってくるでしょう。

 

もちろんそのような会社ではないところもたくさんあるとは思いますが、ほとんどの場合には出世すればするほど苦しくなるのが通例です。

 

 

責任は重くなり、自由がなくなる。特に今は中間管理職が一番しんどいのではないでしょうか。上からのある力と下からの突き上げ、仲間からの嫉妬や裏切り、競争などがあるからです。

 

 

あの中村天風先生も『君に成功を贈る』(中村天風著 日本経営合理化協会 出版局)の中でこう述べられています。

 

 

「上から下までピンからキリまでやっている自分の経験の中で、「どれがいちばん幸福だった」って訊かれると、はた目で見ていちばん幸福そうに感じられるシナ(中国)の最高政務顧問をしていた二ヶ月間が、いちばん、二度とあんな境遇は一日でもいやだなって思いますよ。」

 

 

このように一番良い地位を得た時が、一番不自由であったとおっしゃっています。

 

 

私自身も一番キツイと感じたのは、会社でこれまで一番高い地位にいた時でした。周りから見たら、おそらく輝いていたのでしょうけど、当人はますます苦しくなっていました。

 

若い人たちが知っておいて損はしないことは、この矛盾した真実です。

 

 

親からも誇らしく思われる、周りからも賞賛される会社や役職であるほど、自分の心の中は不自由さでいっぱいであるということ。一方、親からは見切りをつけられ、周りからは馬鹿にされそうな行動をして生きている人ほど、本人はとても自由で幸せを感じている、ということです。

 

 

これはあくまで極端な例ですが、概ね正しいと思われます。

 

 

現代はパフォーマンス社会です。いかにうまく人に伝えられるか、丸め込めるか、騙せるかということばかり考えている人が非常に多いです。つまり作為的であるということです。

 

 

お金を生み出して行く社会にとって、これは欠くべからざるものであると思いますが、過度になると破滅を迎えるでしょう。

 

 

中国の有名な書『荘子』ではこう書かれています。

 

 

「秩序の枠に押しこまれ、善を称揚し悪を排斥して暮らすよりは、善悪を超越して「道」そのままに生きるほうが、はるかに好ましいはずである。」(中国の思想『荘子』徳間書店 松枝茂夫+竹内好監修 岸陽子訳)

 

 

本当は何も考えずに、ありのままに生きられる社会(古代のような)であれば、人々も毎日幸せを感じて生きられるんだと思います。

 

この息のつまりそうな社会の中であなたはどう生きるでしょうか?多くの人たちが、これからの生き方について模索していると思います。私は、いま真剣に自分の人生に向き合う時期だと思っています。

 

 

多くの人たちが本当の自分の生き方に気づくことができたら、素晴らしいですね!

 

 

 

 

 

すぐに飽きてしまうのはなぜ?

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

私が以前会社に勤めていたころ、仕事以外に自分でやりたいことがあってもまったく長続きしないことがありました。

 

自分でなぜこんなにやる気がでないのか?長続きしないのか?と思っていたところある本を読んで、原因がわかりました。

 

 

それは何かというと、

 

「情報のとりすぎ」

 

 

だったのです。脳科学的にいうと「ワーキングメモリが低下しているせい」であり「マルチタスクを知らず知らずにしていた」ということがあげられます。

 

 

これを簡単にいうと、要は情報を常に脳に与えすぎていたため、脳が完全に疲弊していたということ、です。

 

 

私たちの脳というのは、ある一定量の脳にいれられるメモリが決まっており、それを越えると、脳が通常の働きを行えなくなるようにできています。まさにパソコンと同じですね。

 

しかし、私たちは、それにまったく気づかずにいろんなことを同時にやってしまいます。

 

本を読みながら、パソコンでYouTubeを流し、その間に食事をしながら、スマホでSNSをチェックみたいなことを無意識で行ってしまっているのです!あなたもやってしまっていませんか?

 

 

しかもこれを続けていると何が起こるかというと、無気力になる、のです。

 

 

いま若い子たちが、いろんなことに対してやる気がないのも、スマホでSNSをチェックしすぎたり、YouTUbeを朝から晩までみたり、たくさんのことを間髪入れず行っているからです。

 

 

脳は、ある行動に対して、結果をみたがります。だから、食事するのにも、食事に集中することではじめて脳が満足感を出してくれるのです。よく私も何か見ながら食事をしてしまいますが、こういうときは、いま何食べたっけ?というようなことが起こってしまいます。

 

これだと、また追加で食べないと満足感を得られないのです。

 

 

 

いまは、あらゆるものが、すぐに手に入ります。スマホをワンタッチでモノがすぐに届く。何か知りたいなと思ったらYouTubeを検索すれば、あらゆる情報が出てくるわけです。

 

最近、びっくりしたのが、スマホでライブができるアプリがあるということ。

 

いまいろんなライブアプリが出ていますが、本当にワンタッチで世界に自分を生(ライブ)配信できてしまうんです。これが約15年前なんかは世界に配信しようと思ったら、どこかのビルに設置しているサーバーがあるところから配信しないとできなかったわけです。

 

しかし、いまや誰もがタレントのようなものにすぐになれるようになりました。本当に驚きですね!

 

 

これはある意味すごく幸せなことであり、脳的には不幸なのかもしれません。

 

 

なぜなら、脳の視点からみると、何か行動をして、結果を得るまでが短ければ短いほど、ワーキングメモリというものが低下するからです。

 

要するに、すべてのことに対して、待てなくなるという現象が起こるわけです。

 

お金を得るまで待てない、すばらしい結果を得るまで待てない、ということです。仮にすぐに得られたとしても、すぐに飽きてしまう、そして無気力さが継続するのです。

 

 

これはデジタル化社会が生んだ代償と言えるでしょう。

 

 

いつも私は自分のブログで述べていますが、今回述べたようなことも、どこかやはり不自然です。自然と同調したスピードではないですよね。つまり、こんなことをしていたら病気になってあたりまえであるということです。

 

 

私たちはあくまで自然の一部なのに、何か地球で一番だ的なことを言っているのは、どれだけおごりが深いのかということです。

 

 

もう一度、人類は根本から見直していくべきでしょう。そこから再度人間のしあわせというものを見つめ直したいものです。

 

 

追伸:ちなみに今回の記事で参考にしたとても良い本をご紹介します。『超すぐやる!』(菅原洋平著 文響社)です。これは第2弾の本ですが前の『すぐやる!』も一緒に読まれるとすごく理解が深まりますよ!

 

 

 

 

ロジカルは本当に正しいのか?

 

 

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

今日は「ロジカルである」ということについて書いていきます。

 

ロジカルというと、多くのビジネスマンがそうではないでしょうか。以前、私が勤めていた会社でも、ロジカルな人が多く、すべてを理詰めで考えていくというような感じでした。

 

ロジカルで考えていくことはとてもすばらしいことだと思います。昔、知り合いの社長の方ですごくロジカルな人がいました。この方は、すごいんです。朝から晩まで自分のスケジュールを次に何をするか、どうすれば効率的か逆算しながら、ずっと考えているんです。

 

もちろん、一緒に行動するときは、こちらは何も考えなくていいのですごくラクなんです。私にはできないなと思いました。もちろん失敗もしにくく、流れるように物事が進んでいくと思います。

 

 

 

しかし、どうも私はこのロジカルがあんまり好きではないかもしれません。なぜなら大事な直観をおさえることになるからです。

私は直観を大事にしています。たとえ、ロジカルに物事を決めていたとしても、途中でこちらがおもしろいと感じたら修正します。

 

 

おそらく「ロジカルな人」というのは、そのまま予定調和で進むでしょう。

 

 

これはあくまで好き嫌いの問題かもしれませんが、あまりに予定調和でいくと人生がつまらなくなる気がするんです。

 

 

私たちの人生がおもしろくなるときというのは、自分の予想や期待が外れたときです。

 

 

そのとき良くも悪くも物事が思わぬ展開に発展していきます。そのときになんとも言えない人生の醍醐味を感じることがあるのです。

 

 

 

さて、この「ロジカル」というものをもう少し深堀してみたいと思います。

 

 

私は、ロジカルというのは、あくまで人間がつくった論理体系だと思っています。

 

つまりAならばB、という論理の法則です。これはもともと人間が「こうすれば、うまくいくだろうということ(効率)」を考えてつくられていると思うのです。だから言葉もそうですね。

 

 

したがって、裏を返すと、この世の中の出来事、地球で起こっている自然現象などは、この「ロジカル」を越えていると思うのです。あくまで人間がコントロールできる範囲が「ロジカル」であり、この外側のことというのは、「ロジカル」で考えても不明な超常現象ですよね。

 

これがいわゆる、霊的な世界とかスピリチュアルな世界ですね。

 

 

 

ロジカルはあくまで人間に都合よくつくられています。だから、私が思うに、もともとあった自然(精神)世界の中で、人間はより効率よく生きるために言葉を生み出し、それによって直観やスピリチュアルな能力を失ってしまったのではないかと思うのです。

 

 

直観というのは、目には見えないけども、分かるというようなテレパシーとかサイキックのような能力です。動物や生き物をみていて、なぜ彼らには感じ取れるのに、人間にはできないのか不思議でならないのです。

 

 

それはやっぱり、「ロジカル」を肥大化させてきた結果だと思うに至っています。

 

前にもお伝えしましたがもともと私は、数学などを勉強し、この論理体系についてすごく興味を持っていました。

 

論理を駆使すれば、世の中の現象はすべて説明できると思っていたのですが、長年生きていると、それにそぐわない現象が山のようにあることをみて、もともとの論理体系は自然を記述するものではないと感じました。あくまで人間の思考が及ぶ範囲ということです。

 

ですから、やはり「ロジカル」を越えるのは直観の方ではないのかなと思っています。

 

直観が世の中の真実を教えてくれる気がします。自分が世の中のことをみて、ロジカルにみればしょうがないなと思って見ていることも、実は直観でみると、「それ、おかしくない?」と思えるような気がします。

 

いわゆる子供たちが、正直に何でも言いますがそれが、真実を語っていると思います。

 

 

 

私たちは世の中を「ロジカル」で塗り固められ、それが効率的で、実用的で、正しいものであると教えられていますが、果たしてどうでしょうか?いまの地球で起こっている現象をみると、本当にその「ロジカル」が正しかったのか、見直す時期が来ているかもしれません。

 

みなさんはどう思いますか?

 

 

本当の生き方はどちらが正しいのか、ぜひみなさんも考えてみてください。

 

 

 

そのメッセージ、誰に向けて言っている?

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

いつも思うのですが、自己啓発の本とかで言っているメッセージが誰に向けられたメッセージなのか?ということです。

 

ある一定の自己啓発本では、笑顔でニコニコとか、人に親切に、自分を奉仕して徳をつけよう、(仮にAとする)と書かれており、もう片方の一定数では、自分を大事に、自分を優先して、がんばるのをやめよう、(仮にBとする)

 

みたいなメッセージが書かれています。

 

 

みなさん、きっと迷われると思います。実際に、私も相当迷いましたし、悩みました。なぜなら自己啓発の本は実践本が多いので、すぐに実践したいのですが、どちらを実践していいかわからなかったからです。

 

 

これから書くことはあくまで私の経験上なので参考程度に考えていただければと思います。

 

 

まず自己啓発本に言いたいのは、「誰に向けてメッセージを送っているか」ということです。

これがあまりに書かれていないために、読者に誤解を生むと同時に、読み手によっては逆効果を引き起こしてしまう可能性がある、ということです。

 

 

自己啓発本を読みまくっているのに不幸そうな人を何人もみてきました。セミナーとかもそうです。セミナーに熱心に参加している人に限って、人生がうまくいっていないとか、不幸を背負っていることがあります。

 

 

 

これは書籍の出版上難しいかもしれませんが、なるべく誰に向けた本なのかを書いてほしいです。

 

たとえば、いつも仕事に一生懸命で人に尽くし、まわりに気をくばりながら生きている。でもなんだか人生がうまくいかない、という人にとっては、Bの「自分を大事に〜」のメッセージの方です。

 

なぜならこの人がAのメッセージにしたがって実践した場合、さらに自分を追い込んでしまうからです。さらに自分を犠牲にして、働いてしまう。そうしているうちに体を壊して、精神的にも参ってしまう。あれっ、こんなに自己啓発の本を読んだのに何で?

 

という結果になるのです。

 

一方、例えばすごいわがまま放題に生きていて、人もあんまり大事にしない、自分を常に優先して、サイコパスみたいな人、

こういう人はAのメッセージを受け取り、実践するべきです。もしBのメッセージでいったらさらに自己中心になり歯止めがきかなくなり破滅するでしょう。

 

 

このように受け取るメッセージによっては逆効果になってしまうということです。このような皮肉な現実は、すごく多い気がします。だから世の中の人たちはつねに悩み、迷い続けるし、自己啓発本を買い続けるのです。これは自己啓発本が売れ続けるということを意味します。

 

出版業界としては、みなさんの悩みや問題が解決してしまったら困るわけです、本が売れなくなりますから。ですから、わざと迷わせている気がしないでもないです。(これは私の偏った見方ですが)

 

 

 

私はこの自己啓発の矛盾を自ら体験ししてきました。そしていま述べた場所に思わぬ落とし穴があることに気づいたのです。

 

怖いのは、自己啓発の本を読んで実践しているときは何か効いている気になってしまっている、いうこと。さらにその効果がきれてくるとまた欲しくなるという中毒性(麻薬と同じ)があるということです。

 

表向きうまくいっているように見える。しかし、内面、本当の自分はノーと言っている。なのに気づかない、気づけないという構造になっているのです。

 

 

だから自己啓発をするときは要注意で、いったんやりだすと抜け出せなくなる。そして逆に本当の自分に気づけなくなるのです。

 

 

でも、、、本当の自分て、探さなくてもすでにみんな知っているんですよ!

 

 

昨日ちょっとしたことで腹立ちましたよね?昨日、人を少しうらやましく思いましたよね。でも自分をいいなあとも思いましたよね。家でゆったりと過ごし、心地いいなあと思いましたよね?

 

 

それが本当のあなたです。本当の自分てものすごくシンプルだし、すごく人間らしいのです。つまり完璧な人間ではないということです。だから別に高級車に乗らなくても、豪邸に住まなくても幸せなんですよ。(本当に車や家を欲しい人は買ったらいいと思います)

 

 

人間は意外と物がなくても、幸せを感じられる、ということなんです。

 

だから自己啓発というのは、実は外側にわざわざ理想の自分みたいな、すごい自分みたいなものをつくり、そこに向かわせるという構造を持っていて、それがビジネス化してしまっているところに思わぬワナがあるということなんです。

 

 

 

おそらくいまも自己啓発をやっている人は、全く気づかずに理想の(外付けの)自分を目指し続けていると思います。

 

何かを目指すことはもちろん悪くはないですが、いま幸せを感じられているかは別です。

 

 

富士山を登るとき、ひたすら頂上をめざして、まわりの景色も一切見ずに一心不乱に登るか、それとも登ること自体に喜びを見出して、まわりの景色や道端の花にさえ気を配りながら登るのでは、頂上に行った時の感想が違いますよね。

 

 

 

みなさんはどちらがいいですか?これはおそらく好き嫌いの問題でしょう。私は絶対後者です。私は人生の一瞬一瞬を生きたいと思っています。毎日幸せを感じながら味わって生きたいと思っています。

 

 

さあ、みなさんはどちらを選ぶでしょうか?

 

 

「本当の自分は手の届く範囲にいる」

 

 

私はそう思います。

 

 

 

 

 

誰しも完璧ではない。完璧を求めすぎないでおこう!

みなさん、こんにちは!ターチです。

 

今日は、「自分にも他人にも完璧をもとめないでおこう」というテーマで書きたいと思います。

 

私はお恥ずかしい話ですが、つい最近まで「完璧な人間はいる」と思っていました。

 

だから、すごい地位が高かったり、お金持ちだったり、成功者を見ると、きっと人間的にもできている人なのだと思っていました。

 

ところが、自分がそう思えば思うほど、違う側面が見えてそのギャップに愕然としたことを覚えています。

 

 

自分は、完璧な人間性で生きるように育てられてきました。これは少し語弊があるかもしれないのですが、いわゆる禁止事項が多かったのです。ああしてはいけない、こうふるまわなければいけない、それはしてはいけないなどです。(そうすると無意識プレッシャーがかかり完璧を目指そうとするのです)

 

自分で常にそうなれるように、自分自身を追い込んできたように思います。でもそう思えば思うほど、他人にもきつい要求をしたり、完璧を求めたりしていました。

 

 

しかし、最近自分の人生をいろいろと振り返って、自分の人生のグランドを1万周してようやく気づきました。

 

 

「完璧な人間というのは幻想だ!完璧な人間などいない」

 

 

と。

 

そんなの当たり前じゃないですか、と言われそうですが、私は本当に信じていたのです。おそらく私と似たような人種の人でそうおもっている人は実は少なくないんじゃないかと思います。

 

 

 

この世に生まれた人間である限り、みんな似たりよったりだし、愚かなのです。

どんな聖者でも人間らしいところがあると思います。

 

あのインドの聖者サイババですら、弟子に感情的に怒っていたりしていたそうですから・・・

 

 

 

そんなことを知るとほっとするのです。

 

自分はいままで完璧を求めて自分を律し、自分を鍛えようとしてきたけど、それってあんまり意味ないんじゃないかなと。

 

自分は完璧でないことを認める、そして許してあげると、途端にまわりの人を許せてきます。

 

 

自己啓発とかで、自分を律して、完璧な自分をつくろうとかありますが、やっぱりこれは違うなと思いました。

 

 

何が違うのかというと「不自然である」ということです。本来の自分から離れてしまうということです。

 

 

私たちは、戦後とくにですが、どうもアメリカナイズされすぎた気がするのです。アメリカで流行したからかっこいい、アメリカでうまくいった手法だからうまくいくといったものです。

 

つまり私たち日本人は本当は、自分たちの方法や考え方を自然に持っていたのに、アメリカで流行した方法などを半ば強引に取り入れてしまっていた気がするのです。

 

 

これって何か不自然な気がしませんか?

 

 

マーケティングもコーチングも、コンサルティングも、実はこれらは、本当は私たち日本人に合っていないのではという気さえしてきました。こんなロジカルに考えるような人種ではそもそもないからです。

 

 

私は上記のことをずっと長年取り組んできて、最近すごくこのなんとも言えない違和感に襲われています。

 

 

本当は我々の土壌に適した方法があるのではないかなと。それがいわゆる日本が独自にこれまで育んできた文化だと思うのです。

 

私たちは自分が思っている以上に情緒的な人間だと思います。日本で四季があり、和歌があり、俳句がある。

 

どこか私たちは資本主義という経済至上主義の中で、これまで日本人が大事にしていたものを棄損してきた、その最終地点が見えてきている気がするのです。

 

 

話が私個人か日本の話に飛躍しすぎましたが、本当にそう思っています。

そろそろ本来の私自身に戻る日も遠くはないのかもしれません。